「子どもを歓迎しない社会」が招く少子化
目からウロコが何度落ちたことか。
5月14日(土)、公園活性化セミナー「規制の多い公園からわくわくしちゃう公園へ」で聞いた、天野秀昭さん(NPO法人プレーパーク世田谷理事)のお話のことです。
冒険遊び場・プレーパークは、「自分の責任で自由に遊ぶ」をモットーに、子どもたちの好奇心を大切にした、屋外の遊び場。天野さんは参加者にまず、「公園は安全だと思いますか?」と問いかけました。普通、公園は安全だと思いますが、天野さんによれば、公園の遊具は耐久性を優先して堅い素材でできており、基礎部分にはコンクリートが使用されている、すべり台は20センチくらいの高さから段差がついていてこれは0歳児でも上れる高さだ、これならプレーパークの方がよっぼど安全だと環境デザインの専門家から言われたそうです。
一例をあげれば、プレーパークでは80センチくらいの段差かロープしかないので、そこに上れる体力のある子ども、ローブを握る力のある子どもしか上らないようになっている、倉庫の上から飛び降りる子もいるが、その倉庫の高さも3段階に作ってあって、段階をおって高いところに挑戦できるように作ってある……、導入のこんなお話からぐいぐい引き込まれました。天野さんのお話のエッセンスを、多くの方と共有したいのでまとめてみました。
「あぶない」「きたない」「うるさい」
子どもは「あぶない」「きたない」「うるさい」存在。普段は、我が子が危ないことをするんじゃないかとか、大きな声で周りに嫌がられるんじゃないかとか緊張感を持って接している親が、プレーパークではそんなことをいう大人がいないので伸びやかにに子どもをみるようになり、親が楽になっていく。
遊びの本質は子どもの中にある「やってみたい」という意欲。きたない、うるさいは、子どもが遊びに夢中になっているからで、子どもはさまざまなチャレンジをしながら体験を広げ、自分の限界を越えていく。あぶないからと止めることは、生きる意欲を押え込み、危険に対応できる身体をつくる機会を奪う行為に等しい。
静かな公園がいいですか?
利用される公園ほどうるさいのは当り前なのに、子どもの声がうるさいからと苦情が来るような世の中になって、子どもが育つ場が失われている。遊ぶことを尊重されないで育った子どもたちがどんな大人になるのか、どんな社会の担い手になっていくのか想像してみよう。
子どもには、時間、空間、仲間の三つの間(ま)が必要だと言われるが、それだけ用意したらいいのか? 僕はそう思わない。隙間も必要で、今の子どもたちには隙間がない、この隙間を公園が持っている。すべり台の例のように、だれもが簡単に高いところに上れない工夫や、その場にあるもので遊びにつなげる創造性など、公園は可能性が高い。
以前子どもたちが爆竹をやりたいと一箱もってきたことがある。当時何かあるとすぐにクレームを言ってくる近隣住民がいることもあり困ったなと思ったら、子どもたちが公園の周りの一軒一軒を自分たちで周り、笑顔で帰ってきた。「どうだった」と聞くと、「時間を決めてやればいいって」と嬉しそうに答えた。ここに二つの問題があったのだと気づかされた。近隣の方々にとっては、どんな人がやっているのか、いつまで続くのか、これがわからなかったのだということに。迷惑は関係性の中にある、公園を作るプロセスの中で関係性を構築していくことで、迷惑が迷惑でなくなる。
アイデンティティーの本体は「記憶」
アイデンティティーの本体は記憶であると言われている。子ども時代の記憶こそが「私」の原点であり、情動が伴った記憶は自動的に長期記憶に送り込まれ、このエピソードを沢山持っている子どもほどアイデンティティーが強い。やりたいことを押さえつけられたり、やりたくないことをやらされると不快になるが、これが重なると何も感じない心を育てるようになり、外界に対して無関心になる。情動は使わなければ発達せず、情動を働かさないと不安定になる。
学生に子ども時代の絵を描かせると屋外のものが圧倒的に多く、中でも公園の絵が多い。公園が子どもたちのアイデンティティーを作っていくことの重要性を感じている。
多様性が一堂に会せる公共空間が公園
本来まち(コミュニティ)は雑多なもの。公共空間では高齢者、子ども、障がい者の居場所などと縦割りに限定されているが、誰でも、いつでも行ける雑多なまち(コミュニティ)を再現できるのが公園。多様性を保障できる施設は他にない。
子どもがどう育って行くかは社会の将来に関わっているが、子どもを歓迎しない社会が少子化につながっている。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
午前中天野さんのこんなお話を聞いた後、午後は実際にプレーパークに行ってみるプログラムでしたが、私は他に予定があり午後の部は参加できず、とても残念でした。