子どもから遊びを奪ったことが、子どもの問題を深刻にしている
4月6日(土)、国内初の職業プレーリーダーで、現在はフリーランスのプレーワーカー・天野秀昭さんのお話「子どもの根っこは遊びで育つ」をお聞きしました。天野さんのお話は、子どもにとって「遊び」がどれほど意味のあることかをスーッと心と体に落とし込んでくれます。お伝えしたいことはいっぱいですが、お話の中からいくつかを紹介します。
「遊ぶ」がなくなると、子どもの心が死んでしまう
人が生きる上での4本柱は「食う、寝る、出す、遊ぶ」。食う、寝る、出す、までは生命体として不可欠だけれど、「遊ぶ」は心の成長にとって不可欠。これがなくなると子どもの心が死んでしまう。僕は今、このことがすごく大きな問題になっていると思っている。
大切なのは「やってみたい」と言う動機
「遊ぶ」の本質は行動にあるのではなく「やってみたい」、これが動機にあるかどうか。これが動機にあれば、すべてのことがその子にとって遊びになる。「遊び」と「遊ぶ」は全然違う。
「遊び」は◯◯遊びと名前がつけられるものだと大人は思っちゃう。鬼ごっこ、缶蹴り、かくれんぼ……。でも、遊ぶという動詞形で語ると、走る、跳ぶ、よじ登る、かける……動作そのものが遊びであり名前をつけられない。遊ぶという行為はものすごく広い。僕はハイハイも遊びだと思ってる。子どもが自らの意思でやりたくてやっているからです。
このことを言う時いつも二つの言葉を比較しています。それは「教育」と「遊育」。1字違うだけだけど全く違う。教育は育てる、遊ぶは育つ、つまり、主体は誰かということ。教育の主体は教える人、だから、教える人にとって価値のあることしか教えようとしません。教える人が気づいていないことはスルーしている、マイナスだと感じることは禁止している。遊育の決定者は本人、本人にとって価値があるから始める。これは子どもの世界だけでなく大人にもある。大人は、趣味の世界っていうとわかりやすい。自分でやりたいからやっている。遊ぶことで育てているのは自分の世界、唯一無二の世界。
ナンバーワンを生み出す「教育」、オンリーワンを生み出す「遊育」
ナンバーワンを生み出すのは教育、オンリーワンを生み出すのは遊育。今、危機的なのは遊育なんです。教育は生きることの意味や価値を教えることはできる、暗唱させることもできる、けれど、生きている実感は遊育の世界でしか獲得できない。楽しい、面白い、震えるような魂の活動、そこが今危機になっている。遊育の世界を全く感じずに生きてきたら、命とか生きているっていう感覚が自分にないから、生きることの意味がわからない。命が大切だということは知っていても、生きることの実感は感じたことがない。
「私の世界」を作れない子どもたち
今子どもたちを取り巻く社会背景で、かつてなかった事態が2つ起こっている。システム化と少子化です。
まずシステム化について。僕は1958年生まれだけど、子どもの頃、放課後と休みの日は遊育の塊、遊育しっぱなしでした。今の子どもたちはどうですか。大人が時間の使い方を決めたところに突っ込まれていませんか。塾、稽古事、習い事、スポ少……つまり、放課後や休みの日は大人が決めたものにしか使えない。自分で考えて自分で選んでやりたことができる時間ではないんです。大人の作ったシステムに次々と子どもたちが吸い込まれていて、自分で考える、自分で判断することをさせてもらえない、私の世界を作れないんです。
「少子化」を子どもの目から見たら
もう一つは、大人が少子化といっている現象です。大人にとっては、少子化は社会システムが崩れるのではないかという大きな問題ですが、子どもから見たらどういうことでしょう。やたらに大人が多いということでしょう? 昔の子どもたちはエスケープして遊んでいたのに今はエスケープが許されない。だから、かつての子ども時代を考えていたのでは全く違うんです。
「安心」と「安全」の違い
子どもは放っておいても遊ぶものだと思っていたら大間違いです。大人たちが子どもたちを、危ないと言って締め上げている。今大人たちはよく「安全安心」という言葉を使いますが、安全と安心は全く別物です。安心は自分の内側から湧いてくるもの、安全は、君の安全を保障する代わりにこれを守りなさいと相手を縛るわけです。で、子どもたちは大人たちのいいなりになっていく、勝ち目ないですからね。
ちなみに、教育と遊育は対立しているものではありません。教育する側が遊育の価値を十分理解していれば、当然保障はできます。プレーパークは大人が作った場所です。つまり、子どもの遊育を徹底して保障しようとして作った教育の場所です。だけど、私の言うことを聞きなさいという教育者が多いのも事実です。
教育で大人が教えたいと思っているのは善悪あるいは正誤といった価値観です。遊育の「やってみたい」は、面白そう、楽しそうという快・不快、情動の世界です。脳の中でも出所が違います。価値観、善悪を判断するコントローラーはおでこの裏、前頭前野、人たる所以と言われる部分です。脳の外側をぐるっと囲んでいる大脳皮質は類人猿に特有にみられるもので、人は最もそこが発達している。
一方の情動は、脳の奥にある扁桃体を中心とした俗に動物脳と言われている大脳辺縁系、ここが情動のありかだと言われています。問題は発達の時期と期間で、ここは2歳から3歳で、大人の脳の8割から9割が完了すると言われています。9歳ではほぼ完了です。外側は、18歳から20歳くらいまでにかけて緩やかに発達し続ける。動物脳は生きる上で不可欠なもの、その動物脳が先行して育って、前頭前野が徐々に追いついて、大人が持っている規範や価値観が徐々にわかってきて、大人の心が完成するんです。
子どもは、情動(動物脳)が優先なのに、私の言うことを聞きなさいと小さな頃から言われている、前頭前野を使わされているので、情動の働きが止まるんです。3歳くらいまでは躾なんかするなって僕は思います。意味がないどころではなく、子どもの心を踏みにじっている。命を守る上で快・不快ってものすごく重要なんです。動物の不快は自分の命を脅かすことでしょ。それをいち早くキャッチして、逃げるか戦うかどちらかしないと死んでしまう。
情動は、物事を瞬間的に自分の命の重みにかけてはかっていく上で欠かせない感覚なんです。それを抑えられている。そうすると何が起こるか。自分にとっての快・不快がわからないから自分で選べない、判断する基準がないから決められない。大人の言うことを聞くためには本質的には動物脳を抑えないといけないから、動物脳の発達不全を起こしているんです。脳の中には自律神経、免疫系、内分泌系、3つの大きな神経があります。動物脳を抑えこんでいくとということはこれらの発達を不全にするんです。
外遊びを保障するだけで、子どもの問題の6割は解消する
子どもの問題を考える時、外遊びを保障するだけで6割は解消するとぼくは思っています。それだけで解決できます。子どもから遊びを奪ったことが、子どもの問題を深刻にしている。子ども自身も動物脳が育ってないから越えたくても越えられないんです。
脳神経は生まれた直後が最も数が多い。その後は環境とのやりとりの中で、使われる部分だけが残り、使われない部分は落とされていくんです。脳神経はものすごくエネルギー使うので、使わないものを残しておくほど余裕がない。けれど、残った神経を十分に使えば、それが枝を伸ばしていくから、例えば中高生になってプレーパークに来ても変わるんです、どんどん自分を取り戻していく。プレーパークに来ている親は、子どもと一緒に遊びなおしています。幾つになっても大丈夫なんです。