言葉によって見えるもの、見えなくなるもの

「ヤングケアラー」の文字にざわつく心

ご覧になりましたか? 中野区報3月20日号の特集は「ヤングケアラー」。
2018年第1回定例会の一般質問で、中野区議会で初めてヤングケアラーを取り上げてから5年。
当時は区の職員から「ヤングケアラーっているんですか?」と聞かれるほど、存在していても認識されていませんでした。

そのすぐ後、国や自治体などで実態調査が行われ、「ヤングケアラー」の言葉が広く知られるようになり、支援に対する国の予算がつき、自治体での取り組みも進んできています。

中野区でも今年度、ヤングケアラーコーディネーターの配置やオンラインサロンの運営、関係者への研修の実施など、ヤングケアラー支援事業が本格的にスタートします。

これまで見えていなかったヤングケアラーの存在に社会が気づき、課題を共有し、支援に向けた取り組みが進むことを良かったと思う一方で、全く別の思いが日々大きくなっています。
それは「言葉」によって与えられる2面性。

言葉を知ることは、相手を知ることのきっかけにすぎない

ヤングケアラーに限ったことではありませんが、はっきりしなかったことなどに言葉が定義されることで、私たちは「わかった」気持ちになることがあるのではないでしょうか。
言葉を知ったことで、すぐ近くにいたのに気づかなかったヤングケアラーの存在を認識することができたという人もいるかと思います。私自身もその一人です。

言葉は、ぼんやりとしていた輪郭をくっきりと浮かび上がらせてくれて、理解するための手助けになります。
でも、輪郭の中にある一人ひとりの違いまでを表しているわけではありません。

私は2年前から性的マイノリティの若者の居場所運営に関わっていますが、当事者である「LGBTQ」の若者と接することで、一人ひとりの多様性に気づかされました。
LやGの人同士でも、当たり前ですが考え方、感じ方は違います。

言葉を知ったからと言って、相手を理解したことにはならないこと、言葉を知ることは、相手を知ることのきっかけにすぎないことを実感しました。

「ヤングケアラー」と言われるのがイヤだという子がいると聞きます。
言葉によって、周囲が勝手にその子に対するイメージをつくっていることも理由の一つではないかと想像します。

言葉で抱くイメージや課題は、大きな括りでは同じかもしれませんが、一人ひとりの感じ方、課題はそれぞれです。
寄り添うとは、カテゴリーでなく、目の前の一人ひとりと根気よく関わっていくこと。
簡単ではないと思いますが、言葉を知ることで見えなくなるものを意識しながら、さまざまな課題に向き合っていきたいと思います。

ヤングケアラーの特集が組まれた「中野区報」3月20日号の表紙